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父の遺言

父の遺言
私的な話になりますが、2007年8月6日午後、原発不明の癌で50代の父が死去しました。
父とはもう10年近く会っておらず、現在どこで何をしているのか、ずっと知らないままでありました。
5月、「癌で余命1ヵ月宣告がなされている」との話を聞きつけ、入院先の病院の病室にて10年(以上)ぶりの再会を果たしたのです。しかし、もう父は(癌の痛み止めなどの薬の影響で)意識が混濁しており、言葉も聞き取りにくく衰弱していました。それでも一語一語を確認しながら、色々話せました。以下で紹介する遺言は半分録音、半分記憶の中のものです。

再会…ドラマのような展開に

俺はお前の事が一番、気になっていた。
お前の顔を見るのが、最後の、俺の楽しみだった。

もう死を予感していたのでしょう。病室で10年ぶりの再会を果たしてまず言ってくれた言葉です。死ぬ間際に、ずっと会いたかった子供との再会を果たすことが出来て、最初で最後の親孝行(?)ができました。本当ならば、こんなに弱る前、健康なときに仲直りして再会してお互い「友達」として色々な所へ出かけたかったものです。趣味が合うんです、本当に私とそっくりで何でも挑戦したがる、ガチャピンみたいな人でしたからね。

金は無いのにしょっちゅう海外旅行にいくわ(なぜか東南アジアばっかり)、高級車に乗る、空は飛ぶ、海に潜る、釣り大好き、ギター大好き、アマチュア無線、猟銃、船を運転する、サイクリング、…数え切れません。こんなガチャピン人生は相当奇抜なものですが、私の思い描く理想でもあります。気の強い人でしたので、何にでも挑戦できたのでしょう。私には、この父のようにいろいろなことをやりたくても、度胸がなく、いつまでも「いつかやろう」のまま歳月ばかりが過ぎてしまうのです。父の強さを見習いたいものですが、いかんせん私はマイペース者でして…。
そんな父の留まることを知らない「勢い」は、賞賛するに値します。

俺の人生、暴走するばっかりで(前ばかり見て)、ブレーキを掛ける事を知らんかったんだろうなぁ。

その通り。父の人生、突っ走り過ぎて急に崖から落ちたような早すぎる最後になってしまった、と言えるかもしれません。でももし神の存在があるとするならば、数千万の借金で好き勝手に暮らす上、初婚でできた純血日本人の私も含めてアジア3ヵ国に母子家庭をつくり不幸をばら撒いた”天罰”と捉えるのが自然かもしれません。死に際に気付いても、もう遅いのです。


俺はずっと(お前達から)恨まれとると思っとった…。
(お前の)母ちゃんには迷惑かけてばっかりで。

あの世で謝るっつったって、俺は、地獄。お前たち(家族)は多分天国だろう。

あの世の世界があったとして、きっと俺にはまた、苦しい・・・(ここで看護婦さんが登場し話が中断)

10年前に離婚した両親。当時私は高校生でしたが、幸せな暮らしは父の多大なる借金返済の為に滅茶苦茶になったのです。住んでいたマイホームも借金返済の為に手放され、借金から逃れる為かどうか判りませんが、離婚することになったのです。

その後、我が家に慰謝料も仕送りもなく見離された形になっていたので、確かに養育費用などを負かされた母からは恨まれていたかもしれません。

確かに昔は恨んだ時もあったよ。でも、あれから時間が経ってもう許せるし、別になんとも無いよ。

そう応えた私は、別に父のせいで自分の人生が狂わされたとも生活が苦しくなったとも思っていないので、そんなことよりも
「昔小さい頃、ちゃんと育ててくれたんだし、それに父さんが結婚してくれたから私が生まれて来れたんだよ。ありがとう。」
と、感謝の気持ちを伝えたのです。いやぁ喋りながら泣けてきたのは初めてです。

上記のように、前妻である母とは離婚後生きて会えなかったから、あの世で謝りたい、と言っていました。とにかく、自分を責めて後悔ばかり父にする父。
それ以前にあの世なんて本当にあるんでしょうか?


再会の別れ

10年ぶりに再会を果たしたこの日。日も暮れてきたので「そろそろ帰るから」と告げた時。

俺は、お前と会うためにここにいるのに…。まぁ(帰るのは)お前の勝手だけど。

昔の無愛想な父との会話なら絶対にありえない、こんなに寂しがる父の言葉…。父は、ここで別れると最後の別れとなると思っていたようです。
それでも私はまた会いに来るから、と軽くあしらってしまいました。その翌日、父は現に植物状態となって話が出来なくなったのです。最後に話をしたのは私でした。

そして別れ際の会話。

早くよくなれ!
父: 俺は、もう…ダメ。(確)

そんな事ない、絶対によくなって
父: ありがとう。


父: お前は俺の分まで生きろ。(名前の由来は)生きろって(意味だから)。

別れ際、私の名前に「生きろ」という意味が込められている、という由来を教えてくれた父。初耳でしたし、これは父の私に対しての一番の遺言かもしれません。

俺は一番、お前に逢えて嬉しかった…。

この「お前に逢えて嬉しかった」という言葉が、今日久しぶりに再会できて、という意味ではなく、子供が生まれた瞬間の親の喜びを表現しているようにも感じました。
自分勝手なクサ過ぎる解釈ですが。

あの世でまた逢おうな。
生まれ変わって・・・・(来世、生まれ変わってまた出会おうね、と伝えたかったのかもしれない。)

父:ほいじゃあね。
「ほいじゃあ」って?
父:ほいじゃあっていうのは、ほいじゃあ(って事だよ)。


その後、父は20~30秒もの間、弱った体で力一杯、私の手をギュッと強く握り締めてくれました。その間、ずっと無言。私も、感極まって何を言えばいいのか、何も言うことが出来ず。それでも、言葉では表現できないものが伝わってきました。
握り締める手がなんと温かいこと…。そして、何かパワーを授かったような握手でした。



植物状態(?)から復帰

この再会の翌日、自発呼吸が出来なくなり人工呼吸器が取り付けられていわゆる「植物状態」となってしまいました。意識が無いのは薬で眠らせてあったらしいですが、呼びかけても反応がありません。

しかし、その後、なんと改善が見られ、人工呼吸器が外されて意識も戻ったとの事です。現在の再婚相手の奥さんはずっと看病してくれたようです。

余命1ヵ月宣告がなされてすでに2ヵ月以上。変な夢を見た日に、それが正夢となったかのように、悪い知らせ「余命あと1週間」との宣告が入りました。病院を訪れ主治医に改めて余命をたずねると、余命何日かは判らない、近づいて来たら次第に判ってくると言われましたが、どこかから流れてきたこの「余命1週間」は、結果的に正しいものとなってしまいました…。
まずこの日会った父は恐ろしくやせ細っていました。それでも意識がハッキリしており、前回よりも言葉が聞き取れる。会話も出来る。しかし、会いに来たのが誰だか理解しているのかいないのか、ボケたような事を言っていました。意味不明なことを言ったり、幻覚症状です。きっと薬の副作用でしょう。

例えば、そこにカキ氷がある、足の下に誰かがいる、そこに俺のギターがある、値札がそこに下がっている、そこにスッポンがいる、などと様々な幻覚。前回のようなまともな会話は成り立ちませんでした。とにかく、とても癌を痛がっていたこと。
「背中にかけて釘が刺さっている」とにかく背中が猛烈に痛かったようです。

最後の別れ

そしてついに臨終を迎え、斎場で最後の顔を拝みましたが、長年会っていなかったとはいえ死んでしまった親の顔を見るのは辛い…。

火葬場も3歳の頃に祖父がなくなって以来の経験なので、火葬が終わってお骨と対面した瞬間はショックでした。

なにせ、つい1時間30分前にここで「お別れ」をしたあの父の体が今、人の形状に並んだ真っ白い骨だけになって出てきたからです。熱気の中、親のお骨を箸で拾うときの気持ちってものは言葉では語りつくせないほど切なかったです。


人はいずれ死ぬもの。しかし50代という年齢は早過ぎます。せめて、お爺さんと呼べる年齢までもっていてほしかったです。 どうか安らかにお眠り下さい

開始日: 2005/2/9(水)